寿製薬株式会社
幼少期と薬学への志創業者の冨山 節は、明治41年、長野市川中島に酒井譲助の三男として生まれた。幼少期より母親の勧めもあり、景気変動の影響を受けにくい薬剤師の道を志し、将来は薬局を営むことを決意する。旧制長野中学校[現 長野県立長野高校]を卒業後、明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]へ進学した。
学生時代と山岳活動昭和5年、明治薬学専門学校在学中に、同級生の五十嵐久四朗氏らと山岳部[現 明治薬科大学ワンダーフォーゲル部]を創部した。以来、山岳は冨山の終生の趣味となる。冨山は、植物学者・牧野富太郎 の著作『牧野日本植物図鑑』を登山の際に携行し、実際の植物と図鑑を比較しながら、特に薬用植物への知識を深めていった。夏山登山のみならず、当時としては珍しかった冬山でのスキーにも親しみ、山中で薬用植物の名称を言い当てることを得意としていた。この山への情熱は70歳を超えるまで続き、冨山の人生観にも大きな影響を与えた。好きな座右の銘は、「(山で)道に迷ったならば、もとの地点に戻れ」であった。
製薬業への道昭和6年、明治薬学専門学校を卒業後、長野赤十字病院に勤務。昭和10年には、和光堂 に試験研究室員として入社した。その後、同級生より製薬会社創設への参画を求められ、昭和16年、株式会社三栄産業へ入社。昭和18年4月には専務取締役に就任した。
戦時下の経験株式会社三栄産業では、主としてブドウ糖注射薬や鎮痛薬を旧日本軍へ納入していた。同社は鹿児島工場をはじめ各地に工場を有していたが、戦況悪化に伴い、空襲による被害を受けるようになる。冨山自身も、鹿児島工場へ向かう途中で爆撃・機銃掃射を受け、九死に一生を得た経験を持つ。昭和19年、体調不良のため長野へ帰郷。昭和20年4月には、中島化学工業株式会社(長野市川中島)に代表取締役常務として参画し、主としてペニシリン製造に携わった。同時に、昭和6年創立の合資会社・壽商会にも50%出資し、代表社員として共同経営に携わることとなる。
終戦と創業昭和20年8月15日、第二次世界大戦終戦。昭和24年2月11日、「壽製薬所」を創立し、代表取締役社長に就任。昭和26年2月には社号を「壽製薬株式会社」に改め、生薬製造を中心とした事業を本格化させた。昭和51年、昭和52年、昭和53年、昭和55年、紺綬褒章受章。昭和57年、死去。勲三等瑞宝章受章。従五位上に叙せられる。
第二次世界大戦末期の昭和20年4月、創業者の冨山 節は、ペニシリンを製造していた「中島化学工業株式会社(長野市川中島)」の経営に代表取締役常務として参画するとともに、昭和6年創立の長野市豊野町の「合資会社・壽商会」にも50%出資し、代表社員として共同経営者のポストにあった。当時の壽商会では杏ジャム、リンゴジャム、ボイルなど地元農産物の食品加工品を製造していた。また当時の製薬業の許可は、一定規模の作業所を有することが条件であったので、豊野町に有った壽商会には食品加工用のボイラーなどの設備や敷地等、許可を受けるのに十分なだけのものがあり、冨山は壽商会の食品工場の一隅を作業所とすることで思い切って製薬業の許可申請を行った。この手続きは多大な困難を極めたが、長野県庁衛生課の赤尾文次郎氏、関末司氏らのご指導を賜り、昭和24年2月11日、ついに「壽製薬所」を創立する。当社名の「壽」もここに由来する。昭和25年になり壽商会の三人の子息達が無事戦地から復員すると同時にお互いに友好的な関係を維持しつつ独立し、長野県埴科郡坂城町に現在の「壽製薬株式会社」を発足させる。
ここで冨山は杏仁水(鎮咳剤)の製造に着眼する。杏仁水とは、この薬の原料が杏の種の杏仁であることからこの名前が付く。信州、特に千曲市の森の里は「森の杏(もりのアンズ)」として全国に知られた有名な杏の一大産地である。壽商会では杏の果実から杏ジャムを生産していたので、杏の果実から杏の種が外され、捨てられているのを見た経営者で薬剤師でもあった冨山は、廃棄物である杏の種から杏仁を搾取し、天然の杏仁水を生産しようと考えた。さらに杏の種から杏仁を搾取した後の殻は大変熱量があり暖炉に入れると普通の炭よりも火持ちがよく、販売することができた。また、杏仁水の抽出の前工程では杏仁油(当時、1升=1000円ぐらい)も産出され、鎮咳剤として利用され、チンク油(火傷治療剤)の主な原料ともなった。なお、杏仁水の最盛時の生産量は年間2万リットルで、日本の生産量の80%を生産するに至った。また、創業者と同じ明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]卒の薬剤師でもあった妻の通子は、当時を振り返り、「その多くを、ただで捨てていた杏の種を壽が大量に買い取り始めると、食品加工会社や農家の皆さん達に大変喜ばれた。その当時の杏の生産者は、昔ながらに高品質な杏の種を得ることではなく、大正・昭和初期に品種改良された美味しい杏の果肉を効率的に得ることが主な目的だった。」と後に述べている。
また、当時の杏仁水での壽製薬の高い国内シェアを取締役相談役の冨山 剛が語る。それは、「大学時代の夏休みには長野に帰省し、杏仁水を手伝いで最寄り駅まで運んでいた。やがて夏休みが終わり、東京に戻り薬学部での学生実習で杏仁水を使ったが、実は夏休み中に自分が運んだ杏仁水だった。」
杏仁水(キョウニン水:AQUA ARMENIACAE 「KOTOBUKI」)
数多くの薬業関連の会社が存在していた長野県。かつて長野県の薬務課の予算は、古来より豊富に自生している長野県産の薬草(キハダ:苦味健胃薬として百草丸などに使用、ロート根:健胃薬として使用、車前草(シャゼンソウ):長野県では別名「オオバコ」として鎮咳・去痰薬として使用、大黄(ダイオウ):瀉下薬として使用、など)を購買する目的で、全国で最大の規模を誇っていた。その中で、薬草の売買から薬草に含まれる有効成分を抽出する会社が現れ始めた。すなわち、キハダから塩酸ベルベリンを、ロート根からロートエキス(硫酸アトロピン)などを抽出することである。このような激しい競争下、創業者で代表取締役社長の冨山 節は、それらの多くの薬草抽出物を扱うと共に、ほとんど手が付けられておらず、単に食品加工会社から廃棄されていた「杏の種」、また当時は北アメリカからの輸入にのみ頼っていた高価な「セネガ根」の栽培に着目した。それぞれ「杏の種」は、「ひとめ10万本」と言われる、国内で最大量の杏の生産規模を誇っていた本社所在地の隣の千曲市 森地区の杏ジャム製造会社からほぼ独占的に入手し、また「セネガ根」の栽培は、気候や土壌から適していると考えられた本社所在地の長野県坂城町の山々で行った。こうして得られた坂城町産の「セネガ根」のセネガ・サポニン含量は、北アメリカからの輸入品よりも、むしろ高いと藤田 路一 教授(東京大学薬学部生薬学教室)から査読論文にて報告されることとなり、お墨付きを得ることとなる。それらの全国シェアは両剤ともに80%を越えた。
当時のロートエキス抽出機
セネガを栽培し、セネガ根からセネガシロップ(鎮咳・去痰薬)を製造しました。セネガは北アメリカ原産のヒメハギ科 多年生草木で、アメリカン・インデアンのセネカ(Seneka)族が、ガラガラヘビに咬まれたときの応急処置として、その根を使用していました。また、セネカ族はアメリカ東海岸、ニューヨーク州北西部 ロチェスター近郊の森林地帯に居住しています。その気候として、降雨は年間を通してあり、夏季は温暖で、冬季は長く寒冷かつ北アメリカで有数の降雪地帯であり、湿潤大陸性気候に属します。このようにセネカ族の居住区と長野県北部の気候には共通点があります。
セネガシロップ(鎮咳剤)の原料のセネガ根は、当時北アメリカからの輸入品であった。そこでコスト低減や当時奨励されていた国産化のため、当地で栽培を始めた。そこでセネガ根を栽培して、厚生省に持参したところ、物資不足の時期でもあったので、大変歓迎された。早速シロップ用の砂糖を特別配給されたものである。厚生省の紹介で、島根、鳥取、奈良、東京都などの薬務課員が、種子の分譲を求めて当社を訪れることも多かった。当時のセネガ根は、セネガ・サポニンの含有量も北アメリカ産に劣らず、長野県坂城町産の方がむしろ優れていることが、当時の藤田 路一 教授(東京大学薬学部生薬学教室)の研究で明らかになった(昭和27年、生薬学雑誌)。
ロートエキスの本格的な生産は昭和28年の高価な真空濃縮機に始まる。ロートエキスとはロート根というナス科植物「ハシリドコロ」の根茎に希アルコールを加えて浸出させて製したエキスで消化液の分泌抑制・鎮痛・鎮痙薬として用いられていた。また原料のロート根は小県郡長和町、佐久平や上水内郡信濃町など長野県全域の農家から集荷していた。当時ロート製薬が「パンシロン」の発売を始め、昭和30年になると、「パンシロン」の主原料・ロートエキスの大部分を当社が納入した。このロートエキスの生産量でも、日本の生産量の80%~90%を生産するに至った。しかし、ロートエキスの定量ではバラツキがあり、当社研究所や国立衛生試験所、長野県衛生試験所などで同一のサンプルを試験し、品質の確保に最大限努めた経緯もある。
ルチンの本格製造は昭和31年から開始された。当時、長野県化学株式会社という会社でクロロフィルを造っていた菊池氏兄弟は、もう1社、日本ルチン株式会社という会社を持ち、社名の通りにルチン(ビタミンP様作用を有するフラボノイド)を製造していた。その日本ルチンを当社が引き継いでくれるよう、代表の菊池氏から要請されたのである。当時ルチンはヨーロッパにも輸出されており、2交代制を敷いたほどである。当時のルチンは武田薬品工業や問屋を仲介して各メーカーに出荷された。
前列)杏仁水(キョウニン水:AQUA ARMENIACAE 「KOTOBUKI」)ロートエキス(EXTRACTUM SCOPOLIAE 「KOTOBUKI」)チンク油(OLEUM ZINCI OXIDI 「KOTOBUKI」)ホミカエキス(EXTRACTI NUCIS VOMICAE 「KOTOBUKI」)
後列)セネガシロップ(SYRUPUS SENEGA 「KOTOBUKI」)ルチン散(PULVIS RUTIN 「KOTOBUKI」)塩酸ベルベリン(BERBERINE HYDROCHLORIDE 「KOTOBUKI」)
生薬事業は成長を続けていた一方で、大きな課題も抱えていた。それは、生薬の原料である薬用植物は、その年の天候や産地に左右されて品質が安定せず、市場価格の変動も激しかった。また1年分の原料を一時に購入しなければならず、資金運用の面でも負担は大きかった。さらに原料を大量購入しても、原料価格が安くなると、製品価格も安くなり、リスクも大きかった。このような背景もあり、生薬生産の継続か、それとも化学合成医薬品へ業態転換するのか、喧々諤々の議論の末※)、昭和36年頃から2代目社長の冨山 剛を中心として生薬のバルク製造と並行し、また欧米との特許制度の差を利用して化学合成品製造へ転換する。最初に取り組んだのは塩酸フェンホルミン(商品名/ジベトン)、塩酸ブホルミン(商品名/ジベトンS)であった。特に塩酸ブホルミン(商品名/ジベトンS)は国産初の腸溶性製剤であったので、日赤中央病院から製造工程の見学に訪れた。当時、腸溶剤のコーティング機械はなく、釜を独自に加工し独自のコーティング機械を作り、製剤化に成功した。また昭和42年頃からクロフィブラート(商品名/ピノグラッグ)の生産が急増した。製品は自社で販売したり、製剤バルクとして大手数社に卸した。このクロフィブラートは国産1号ということで厚生省の特別な配慮を受け、許可および薬価も短時間で収載してもらえた。このように国策の勧めた高価な輸入医薬品の国産化という中で、国内大手製薬会社から求められる原薬の純度は、あらゆる製品に於いて、「欧米からの海外輸入品と同等以上」であり、その実現に最大限の努力を務めた。この時の厳しさが今日の当社の「品質文化(Quality Culture)」の礎となっている。
※)日経産業新聞 連載企画 『シリーズ【転機】』より 【転機】生薬から合成薬で『親子げんか』~長野県特産の薬草から生薬を抽出する地方の一生薬メーカーでは満足できなかった~ 壽製薬社長 冨山剛 (1992年12月9日(水)付 日経産業新聞〈当時〉掲載)
なお昭和47年の日中国交正常化により安価な中国産生薬の直接輸入が開始され、日本の薬用植物栽培は急速に衰退する。やがて中国産生薬は国内市場の約8割を占めるようになり、かつて全国最大の薬用植物の栽培面積を誇り「薬草王国」と呼ばれた長野県の幾多の会社は大打撃を受ける。ここに信越本線の「一つの駅に一つの(生薬)会社」と称された長野県の生薬生産もその区切りを迎えることとなる。これは当社が生薬から化学合成医薬品へ業態転換してから実に10年以内の出来事であった。
さらに昭和44年6月になると当社の自社開発商品であり、後に医家向け医薬品銘柄別の国内年間売上高が第1位となる「マーズレンS配合顆粒」が発売された。
カモミール由来成分アズレンに着目し、その化学修飾研究を進めた結果、マーズレンS配合顆粒、マーズレン配合錠ES、さらにアズロキサ顆粒・錠の開発に成功した。これらは胃炎・胃潰瘍・十二指腸潰瘍治療薬として広く使用され、壽製薬の主力製品群となった。
また、キャベツに含まれているL-グルタミン(胃炎・胃潰瘍・十二指腸潰瘍治療薬)もマーズレンS配合顆粒とマーズレン配合錠ESの原料になっている。
さらに、生体内で多様な機能を担う「糖」および配糖体化学に注目し、独自の低分子創薬研究を展開している。
リンゴの樹皮に含まれる配糖体であるフロリジンを基にスーグラ錠を開発した。
蕎麦などの穀物の胚芽成分に含まれる植物ステロールの持つコレステロール吸収を抑制する作用に着目し、コレステロールの吸収を抑えることで血中のコレステロール濃度やLDL濃度を下げる薬剤の開発を行っている。
郷土の生んだ病理学者・山極勝三郎(1863年~1930年)は、初代東京大学医学部病理学教室教授を務め、ノルドホフ・ユング賞を受賞した。1915年、コールタールをウサギの耳に長期間塗布し続ける実験により、世界で初めて人工がんの発生実験に成功したことで知られている。ノーベル賞委員会の公表によれば、1925年、1926年、1928年、1936年の4回にわたりノーベル生理学・医学賞候補者となった。
本社から見る千曲川
山極博士は、「癌を作ることができれば、癌は治せる」という信念のもと、300日以上に及ぶ長期実験を継続した。人工がん発生実験成功の際には、「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」という句を詠んでいる。この句は、博士の号である「曲川」の名とともに、現在も東京大学医学部2号館本館入口に刻まれている。さらに博士は、その後もがん免疫治療研究を続け、「世の癌をみな育たせぬみちもがな」という句を残している。壽製薬は、このような山極博士の研究精神と挑戦の歴史を受け継ぎ、抗がん薬研究にも取り組んでいる。その一例として、FLT3阻害剤 ゾスパタ錠 の研究にも参画した。
現在、壽製薬は胃腸疾患領域を中心としながら、糖尿病、脂質異常症、泌尿器疾患、さらには抗がん薬領域に至るまで研究開発を展開している。カモミール由来アズレン、キャベツ由来L-グルタミン、リンゴ由来フロリジンなど天然物を起点とした医薬品開発は、創業以来の理念を現代的に発展させたものである。山極勝三郎博士の「癌を作ることができれば、癌は治せる」という思想も継承され、抗がん薬研究の基盤となっている。
壽製薬の歩みは、地域薬草資源から始まり、科学的医薬品開発へと進化した一貫した研究開発史である。
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